「自然現象と、
人間の脳を結ぶインターフェース」
僕は、物理を
と位置づけています。
物理Web講座のはじめにも、予備校の講義のはじめにも、『微積で楽しく高校物理がわかる本』のはじめにも、僕の講義には、「脳」が必ず登場します。
僕以外に、こんなに「脳」を連発する物理講師を知りません。
「分かりやすい」とか、「分かりにくい」というのは、「脳が処理しやすい形式」「脳が処理しにくい形式」という言葉に置き換えることが可能だと思っていま す。
難しい問題の多くは、「人間の認知能力の特徴」を反映しています。
ですから、そのことに気付くと、解法の必然性が見えてきます。
僕が、授業中によく、こんなことを言います。
「2つ以上のものが同時に動くものを処理するのが、僕た ちの脳は苦手なんだ!」
「だから。。。」
目を連動させて動かすことしかできない人間にとっては、2つのものが同時に動くことをイメージ
することさえ難しいです。
それを、すっきり理解するためには、脳が得意とする形式、つまり、1つだけのものが動く状況に
直してやる必要があります。
そのために考え出された工夫が、どちらか1つとともに動く観測者の立場から、相対運動を考えるという解法です。
ここからみれば、もう一方の物体の運動だけが動き回るので、運動をイメージするのが楽になります。
脳にとって理解しやすい形式に、問題設定が変更されたのです。
「相対運動を考える」という工夫の背後には、脳の認知能力のクセが隠されていたのです。
僕が、すぐに「脳」という言葉を使ったりするのには、僕が物理をどのように学んできたのかということと深く関係しています。
僕は、大学院で「複雑系の物理」というものを研究してきました。
そこで、「生命というものが、どういう形式なのか」ということを、ずっと考え続けてきました。
ある種の生物は、単細胞アメーバとして生き、生活しているのに、集団を作って相互作用しているうちに、突然、多細胞体としての「自己」を創発します。
そのようなものを、モデルとして使いながら、「自己」というものがどのようなものなのかということを、興味の中心に置いてきました。
研究生活から離れた今でも、自分の発想の元には、「自己」というものは何なのかということが、しっかりと根を下ろしています。
予備校で物理を教えるようになって、「自分にとって最も明快な解法」というものを追求していくと、
「自分(脳)にとって分かりやすいとはどういうことか」という問題が、逆に浮かび上がってきました。
物理は、自然をできるだけ「わかりやすい」形で記述しようと洗練してきたものです。
誰にとって「わかりやすい」のかというと、「人間(脳)」にとってです。
ですから、言ってみれば、物理は、「脳にとって処理しやすい形式」を追求してきたのです。
そのため、僕たちの脳が、どんなものを得意で、どんなものが苦手なのかを知ることで、
解法の方向性が見えてきます。
先ほど書いた、「2つのものが同時に動くのを処理するのが苦手」も、その一つです。
自分(脳)と相手(自然)の両方を考えた上で、その間を結ぶ「物理」を考えてみると、
物理のやっていることが非常にすっきりと見えてくるのです。
僕は、物理を教えるときに「微積分」を使いますが、計算をガリガリして答を出すために使うのではありません。
そういうことは極力避けます。
自然を理解するための法則体系を作るために、「微積分」が不可欠なのです。
ガリガリ計算して答を出しても、「すっきり分かった」感じにならないからです。
そんなことをするのは、「見えていないから」だと思っています。
それよりも、図を多用します。
うまく現象を切り取った図には、現象の本質が現れます。
本質をつかんでしまうと、実は、とても単純明快に現象を見ることができるようになります。
問題設定を見たとたんに、答が分かってしまうことだって可能です。
このように、「本質を見抜く目」を養うためには、まず、数式を見ると、反射的に計算の道に進んでしまう習慣から脱出しなくてはなりません。
僕は、生徒のテキストの裏表紙に、次のように書いておいて、ときどき見るように!と指示します。
「計算するな!代入するな! 比をとれ!差をとれ!規則を見抜け!」
これを自分に言い聞かせながら、思考の流れを変えていきます。
すると、本当に、自然現象の本質を見抜く力が養われてきます。
「田原の物理」は、独特です。
そこには、僕が独自に工夫した解法の数々が含まれているからです。
「脳」とか、すぐ、言い出すので、物理の講義らしくないかもしれません。
でも、そこには、「物理は、自然現象と人間の脳とを結ぶインターフェースである」という、僕の信念が一本貫かれています。
あなたも、物理の世界を、田原のナビゲーションで学んでみませんか。
無料講座でも、早速、「脳」を連発していますよ。